大岡裁きと裁判員制度
大阪弁護士会所属
弁護士 五 右 衛 門
大岡裁きに国民が喝采をおくるのは何故なんだろう。
個別の、具体的な事件について、当該被告人、裁かれる人の有利な情状等を重視して、一般的な量刑相場などを無視し、裁かれる人に利益な方向で、裁き、判決をする。
その個別、具体的な量刑事情などが国民の同情を呼ぶ場合、国民は大岡裁きを受け入れ、喝采と溜飲を下げる。
このような大岡裁きの場合、一般的な裁きの量刑相場から乖離していることから、大岡裁きと称されるのかもしれない。
「大岡裁き」=「量刑相場と乖離した裁き、判決」
この大岡裁きは、言葉を変えれば、量刑事情として、「行為、結果」よりも、「犯行の経緯や背景事情等」を重視した裁きという見方が可能かも。
刑罰法規は、行為と結果により法定刑を定めていることから、基本的量刑事情が行為と結果であることは間違いないだろう。行為と結果により、概ねの量刑が導き出され、そして行為と結果以外の量刑事情が加味されて、宣告刑が導き出される。
ところが、大岡裁きは、行為と結果以外の量刑事情により、その宣告量刑の内容を決定するという特色がある。
それは、量刑算定の基本原則を否定するところに特色がある。
そして、それは量刑相場を否定し、裁きの公平性を喪失させるという側面があるのかもしれない。
大岡裁きができるか否かは、判官が、量刑算定の基本原則を否定する勇気ないし無謀を保有しているか否かにかかる。
裁判員制度の導入を迎える今日
判官に、大岡裁きを求め、期待することがいいのか、悪いのか。
ひとつ言えるかも??
裁判員は
職業裁判官と異なり、上記のような勇気と無謀を実践できるかもしれない??