法廷闘争の敗北と不利益情状について
−−情状認定の問題点−−
2005/2/11
大阪弁護士会所属
弁護士 五 右 衛 門
1 刑事訴訟で、「無罪主張ないし被害者側の過失の存在などを主張」して検察官と対立、闘争をしたものの、判決において、その主張が認められなかった場合、被告人側の上記のような主張態度について、反省の情がないとして不利益な情状として取り扱われることが一般である。
2 理論ないし論理的に考えると、上記のような取扱い自身に矛盾はないのかもしれない。 なぜなら、裁判所の認定した事実を前提とすれば、被告人の主張や訴訟態度に、反省の態度が窺われないということにもなり得るからである。
3 しかし、このような矛盾がないかもしれない取扱いが、刑事被告人の権利行使を萎縮させる要因となっていることも否定できない。
被告人として、無罪ないし被害者側の過失などの主張をしたいと考えても、それが成功しなかった場合の、リアクション、即ち「その態度をして不利益情状」と取り扱われる危険性を憂慮するからである。
この点についての改善の要否ないし方策などを検討する価値はあるものと思う。
4 仮に、裁判所の事実認定が誤っていたとしたら、裁判所は二重の意味で誤りを犯すこととなる。
イ 事実の誤認と
ロ 不利益情状の認定についてである。
5 裁判に誤謬はない、との前提であれば、このような危惧は不要のものであるかもしれない。
しかし、弁護士として裁判実務に携わっていると、本稿のような問題意識を払拭できないでいる。
「裁判に誤謬はない」というような絵空事は排除し、「誤謬があるかもしれない、あったとしても、その誤謬による不当な結果は可能な限り避ける方策をとるべきである」との観点からすれば、考えなければならない。
なんらかの、合理的な解決策はないのか??と。
6 試案1
検察官提出の証拠と比較総合的に検討して、被告人側の主張にも、主張行為時を基準として、主張することに一応の合理的根拠が認められた場合には、(結果として、合理性はないこととなるが)不利益な情状として取り扱うことを禁ずる??
7 東京弁護士会所属清見勝利弁護士の試案
黙秘権というものがありますが,憲法に由来する自己に不利益な供述を強要されないという権利。強要されないだけでなく,黙秘したことを理由に,その者を不利に扱うことも禁止される。そうでないと,事実上,不利益供述を強要する効果となるから。
同様に,例えば,争訟権とでも言いましょうか,被疑事実や,公訴事実を争う権利というものを法律上明確に認めるっていうのはどうですか?公訴事実の全部又は一部を否認したり,その他,検察の主張や証拠について争うことのできる権利で,言い方は変ですが,争わないことを強要されない(かなり変ですね)権利。
そして,争ったことを理由に,被告人を不利益に扱うことも禁止される。そうでないと,五右衛門さんもご指摘のように,争いを避けることを事実上強要されるからですね。
8 清見弁護士の試案が端的な解決策かもしれない。
しかし、裁判所認定事実と被告人の反省認定との関係をどうするのか、どう考えるのかという問題は残るような気もする??
9 清見弁護士の言われる「争訟権」は、憲法上の権利として位置づけることも可能かもしれない。
憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」、同32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と定め、同37条は「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する」と定められている。
憲法31条は「刑事訴訟における適正手続きの保障を定めたもの」とされ、また同37条は、近代訴訟における当事者主義の基本理念からすれば、「刑事訴訟等における事実の認定等について被告人側の検証作業の権利を認めたもの」とも理解可能であり、「争訟権」はこれら憲法の条項により当然認められている権利である。
被告人側に「争訟権」を肯定し、被告人側の「争訟行為について、不利益な取扱をしてはならない」という原理を肯定しなければ適正な刑事手続きの実現は困難となるからである。
この理は、「被告人側の争訟行為について、反省の情がないという情状認定をしてはならないという不利益な取扱をしてはならない」ということに止まるものではなく、「公判において反省の情を示した被告人との量刑上の差について、一定の制限を課するもの」でもある。
10清見弁護士の補足意見
憲法37条を久しぶりに読んでみると,確かに,おっしゃるとおり,「争う権利」が憲法上認められていることは疑いありません。
無辜の人が起訴され,無辜の人が有罪判決を下される,そういうことが実際にありうる,そして,できるだけそういうことがないような刑事手続きでなければならない。そんな手続が適正手続(憲法31条)の意味でもあると思います。
適正手続では,無辜の人には存分に争わせなければいけません。無実を晴らす機会,手段を充分に与えなければならない。
で,無辜の人が争えば,必ず,無罪判決が下るというのなら,争ったことを不利益な量刑事情としても比較的問題は少ないかもしれない。争ったことを不利益に斟酌されるのは,真に有罪の人だけだから。
でも,無辜の人が無実を晴らすべく争っても,それが奏功せず,裁判官が有罪判決を下すことがある。しかも,今の現実は,有罪とされるだけでなく,争ったことを量刑上も不利益に扱われる。
この誤判の現実,五右衛門さんもご指摘の量刑まで二重の不利益のリスクがある限り,無辜の人といえども,争うことを躊躇することになる。それでは,無辜の人に無実を晴らす機会,手段を充分に与えたことにはならない。適正手続とはいえないでしょう。
だから,裁判官は,有罪と認定すべきだと確信しても(そもそもそれが誤りである可能性がある),被告人が争ったことを量刑上不利益に扱ってはならない。それは,憲法31条,37条などから導かれるもので,刑事訴訟法上も本来明記されるべきであると。五右衛門さんのお考えはこういうことかなと,推察しますし,賛同するものです。
ちなみに,真実有罪であるにもかかわらず,あわよくば罪を免れたいと無罪を主張して争う被告人がいたとして,裁判官は有罪と確信した。でも,有罪判決を下すことはよいが,争ったことを量刑上不利益に扱ってはならないことになります。真に有罪の人に争う権利を与えることになるのはおかしいのではないか,との意見があるかも知れませんが,真実を確実に見抜く眼からすればそうだけど,そのようなものは,検察官にも,弁護人にも,裁判官にも,将来的には裁判員にもないわけだから,謙虚に,証拠上は有罪とせざるを得なくても,常に被告人が無辜の人である可能性があるという前提があるわけで,したがって,常に,どんな場合でも,争ったことを量刑上不利益に扱ってはならないということを鉄則としなければならないわけです。争う権利を実質的に保障する限り。
法律の理屈はともかくとして,争ったから,反省していない。素直に認めているから反省している。本当にそうなのかな? 特に,素直に認めている=反省している,は必ずしも成り立たないですね。 被告人に有利な場合はあまり問題とされないだけで,実は,量刑も誤判だらけかも。
11東京田中行政書士の補足意見
ある行為をしてしまって、実は、とても内心では反省していたとしても、反省していることを表明してしまうと、その行為をしてしまった事を告白してしまう事になるので、行為があったとしたら(内心)反省しているけれども、行為があったかどうかという事実に関しては(客観的に証明できるか)争いたい場合はあったりするような気がします。
(例えば、酔っていて(記憶が やや 不明な部分がある)とかの場合で、したような気もするが、してないような気もする、、、など)
そのようなケースで、結果として、裁判官が行為があったと事実認定した(そのように事実認定さぜるをえなかった)として、良心的な裁判官ならば、、「諸般の状況などを勘案すれば、被告が内心では深く反省してた事が強く推認され、しかし、被告は事実に関して争いたいが為に、反省していることを表明できなかっただけなのだから、事実に対して争ったことをもって被告が反省していなかった、と認めることはできない」とか言ってくれたりしたら、、、、それはそれで、、、、かな。